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2017年8月22日 (火)

書簡集を読む その3

 1921年2月18日の手紙の中で、レーヴィットはハイデガーに次のように問う。
「私の(論文発表の)印象は、どんな印象だったでしょうか・・・
 いったい先生はどう思っているのでしょうか。私は哲学者になる素質があるでしょうか。つまり、素質というのはどんな哲学者に役立つものでしょうか。確かにそれは、結局は、私自身が答えを出せる、うぬぼれの強い、子供のような問いにすぎないのですが、やはり私には、ある人間を知っている批判的人間の判断は価値がないとは言えないのです。私には、内面から溢れ出てくる思想の創造性というものを感じ取ることはできません。また、私は、思想に必要とされる、いわゆる、冷めた情熱にどう対処すべきか、全く分かりません。私は、ハンマーでもって哲学することはないので、いったい何でもって哲学すればよいのでしょうか。おそらく、最もうまい言い方をすれば、内面的な不満足とか、明瞭さへの要求とか、好奇心ということになるのでしょうが、考えなければならないということは、私が生きているということに属しています。それでも、圧倒的な力で私を決まったこと、つまり、その決まったことの方へと駆り立てることはありません」
 
 それに対して、ハイデガーは次のように書く。
「私ががっかりしたのは、あなたが掘り下げをほとんどしなかったことと、あまりにも多くのことを盛り込もうとしすぎたからです。私には、そもそもそれがあなたの欠点であるように思えます。あなたは、本来の研究にもっと打ち込めるということは、今日十分わかっています。あなたは、今読んでいる物をもう一度しっかりと読まなければならないという経験をいつかすることになるでしょう。もちろん、最初の方向づけは曲げられることはないでしょうが、それが全面的に広がるというほどにはならないでしょう。そういうことがあなたに当てはまるという印象を私は持っています。生き生きと哲学することに突き進み、それに沿ったことを履行することは今日では特に難しいのです。したがって、あなたは中途半端に研究するのではなく、哲学する行為それ自体の中に反省を溶かし込ませておいてよいのです。哲学は余興ではありません。人はそれが原因で身を亡ぼすこともあるのです。その危険を冒さない人は、哲学にはたどり着けないのです」
 その後の手紙(1921年2月26日)で、レーヴィットはあからさまにフッサールの批判をする。
「フッサール自身、彼が立てている高い要求にもかかわらず、最初から私にとっては問題ならなかったし、私が2学期にいきなり何度もフッサールの哲学的なやり方に対する強い反発を先生に言い表したことを先生も覚えていると思います。フッサールは根本において偉大な哲学者ではないし、彼をカントと同等とみなすことは大きな錯覚であるし、彼の考え方全体は果てしなく現実離れしていて、非生命的で、学者だけの論理だということは、今日、私には非常にはっきりしています」
おそらく、フッサールに対する批判は、ハイデガーも共有していたので、レーヴィットもこれだけのことが言えたのであろう。
 ここで、1920年頃までに至るハイデガーとフッサールをとりまく動向をざっと確認しておきたい。
 ハイデガーは、1909年の秋にフライブルグ大学神学部に入学しているが、二年後に、神学部教授たちが、ハイデガーのカトリック理解が「新しすぎる」と判断していることで、自分にとって神学部での先行きがないのを悟って、一時、理学部に籍を置いた後、1912年の春に哲学部に転部する。リッケルトの演習でエミール・ラスクを読み、そこにフッサールの大きな影響があることを知り、フッサール【特に、『論理学研究』】に関心を持つようになったと言われている。1915年に教授資格論文≪ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意味論≫が認可されたが、その直後に戦地に応召するも、体調不良ですぐに帰郷する。1916年にリッケルトがハイデルベルグ大学に転出したのと入れ替えに、フッサールがゲッティンゲン大学からフライブルグ大学に来て、直接、現象学を学ぶ機会を得る。
 しかし、ハイデガーはフッサールの現象学から、いったい何を学んだのだろうか。基本的には、現象学は意識に現れるものだけを忠実に扱おうとするが、その現象を我々の意識がどう構成するのかを徹底的に問おうとする。しかし、他者を主観性から構成しようとする試みは、『デカルト的省察』で失敗したと言われている。物を扱っているときはよいが、主体性を持つ他者を構成するという不可能な壁に突き当たったからである。いずれにせよ、徹底的に自分の意識をよりどころとするフッサールの手法は、デカルト、カントの流れを受け継ぐものであり、主観と客観の二分を前提とする近世の認識論の最後に行きついた到達点であったともいえるのである。
 他方、アリストテレスや中世のスコラ学派に通じているハイデガーからすれば、フッサールの提唱する現象学は、所詮、西洋の伝統の一部を押し広げるものでしかなかったのである。
このことは、ハイデガーの次のような発言でも確認できる。
「ところが、私にしてみれば、現象学の中でのひとつの方向、まして、新しさなどどうでもよいことだったのです。私が試みていたのは、むしろ逆に現象学の本質をもっと根源的に考え、そうすることで現象学を、それが西洋哲学に属しているということの内へ改めて差し戻してみることでした」【『言葉についての対話』より】
 このことは、いわゆるブリタニカ論文でも、同じ趣旨の現象学の位置づけを確認できる。
 ハイデガーは、現象学を通して、巷に行き渡る、諸説や解釈に惑わされることなく、そこにあるものをそのままに受け取ろうとする。それは、とくに、トマス・アキナスを含めて、それまでの権威あるアリストテレス解釈に影響されることなく、自信をもって原典を読みぬく姿勢を徹底的に貫いていくことこそ、「事象そのものへ」ということの意味であると確信したと思える。それは、言い換えると、歴史の中で付着した言葉の「垢」を振るい落として、言語が湧出する始原に戻って思索する姿勢こそ、ハイデガーの取得した現象学的手法と言えるのではないだろうか。ハイデガー自身の言葉を引用すれば、
「フッサールの教えは、現象学的に≪見ること≫を一歩一歩訓練するという形で行われた。この場合の≪見ること≫は、同時に、哲学的な知識を吟味しないまま使用することを辞めるということを要求し、さらに、偉大な思想家たちの権威を会話の中に引き入れることも断念せよ、と要求した。しかし、私は現象学的に見ることと親しむ度合いが増し、アリストテレスの著作の解釈が判然とすればするほど、ますますアリストテレスやその他のギリシアの思想家たちと離れられなくなっていった」
 結局、意識や主観という中心点が、生ける事実性の経験に揺さぶられる現存在と置き換えられた時、自我はもはや世界を構成する基点ではなく、存在の語りかけに耳を傾ける「従者」の立場に収まるのである。
 こうして、哲学史をハイデガーなりに存在論的に解体していく読みが始まったのである。

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